賃金労働中に、外を大雨が襲った。それはもう凄まじい雨であり、雷もけたたましく鳴り響いていた。そんな時間が1時間くらい続いていた。あの雨粒の音だと、きっと風も強かったのだと思う。昨日が二百二十日(立春から220日目で、農家にとっては厄日らしい)だったけど、今日の雷雨を予感していたのかもしれない。
雨雲レーダーを見て見ても、真っ赤なエリアにわたしの自宅が覆われている時間があったのだけど、それでも近くの多摩川は別に氾濫の兆しすら見せずぴんぴんしていた。不思議なものね。この間のカムチャッカ半島を襲った地震の時は1メートルの津波注意報が在ったり大きな引き潮が襲っていたのに。大雨程度ではびくともしないのだろうか。大きな河川とはそういうものなのかもしれない。とはいえ去年の台風の時は結構危なかった気もするけど。水位の上昇というのは中々わからないもの。まあ、人間は水には一切抵抗できず死ぬので、用心するに越したことはないけどね。
そんな波乱に満ちた天候でもあったから、電車も大混雑。あまり本も読み進められず。とはいえ今回読めた部分は有名な「朝三暮四」の部分だった。斉物論という章なわけだけど、斉物論は寓話チックなものが多いらしい。だから荘子を読んだことなくても聞いたことがある、みたいな話が結構詰まってるらしく、そのルーツを知ることができるのも興味深い。
で、その朝三暮四については、章を通してみると陰陽道に似たような考えなのかな、が展開されているように思えた。世界のありとあらゆるものや事象を、一個存在として考える発想にははっとしたのと同時に、わたしが地球に回帰できるような存在でありたい、と考える思いと通じる何かがあって、そこに少しだけど、でも替えの利かない感動が得られたの。一個の存在は完璧、と呼ばれる存在で、そこから物の存在、境界の存在、是非の区分が展開されていったという話であったのだけど、自分が地球によって産み落とされたことが、きっと地球という完璧存在をものとして扱い、生まれたことで地球とわたしに境界が生まれたのだろうと。そこから自分は是なのか非なのか、それは多分ある面では是であり、ある面では非なので、地球にとっての是ではありたいなと思えた。
そしてもう一つ気になったのは、自らが好むところ、つまりは自らの好きを明らかにしようと突き詰めるのは、そもそも明らかになりようのないものを明らかにしようとする努力であるため、何も為すことがないということが論じられていたのだけど、これは結局好き、というのは言語化できないものということなのだろうか。そもそもその好き、であったとしてもその好き自体も原初は一個の存在、さらに突き詰めると完璧だから、だろうか。感情が生まれた以上人間には是と非を判ずる性からは逃れられず、そこから生まれるのが好き、毀損されるのが嫌悪、なのだろうか。おそらくその性に対してある程度の折り合いや納得を付けられることが、好き、をより深く堪能できる鍵なのかもしれない。そう考えると、陰陽道にちかい表裏一体のこの世界や物についての見方に、この「明」の視点を入れたいなと思える、そんな章だった。
へへへ、こうやって名著を自分の好きに考えられるの楽しいね。きっと色々と学べばさらにいろいろな角度や深みから見られるのだろうね。これだから知るのはやめられない。
