出典:世阿弥「西行桜」※能の一つ
最近、自分がこの先どうやって日々を過ごせていければいいのか、というのを考えることがある。
常に考え続け、動き続け、知識と見分を深め、それらとの向き合いを忘れず、自分の世界地図を広げていく。そんな生き方を死ぬまで続けていくことに揺らぎはない。そして最終的に自分がたどり着きたい生き方も、ぶれはない。自由と分かち合い。それが私が実現したい胸を張れる生き方であり、夢である。
んで、その分かち合いについて色々考えていた結果、機会について、友について考えてみた。
得難き時
得難きは時、即ち良き機会というのはそう簡単に得られるものではない、っていう話。なかなか得ることのできないいい機会、これ自体について私は、待っていようが動いていようが来るときは来る、そんな風に思っている。もっとシンプルな言葉を使うと、そういう機会の訪れというのは運命で決められているものだと思っている。
では機会を得るための主体的な動きというのは無駄な行為なのか、と言われたら私はそうは思わない。確かに機会のコントロールは、人間の手に余る代物だと思う。しかしその機会が自分にとってどのようなものになるのか、という点においてはその機会の訪れまでに自分が積み重ねてきた知見、思想、他との関係などがものをいうと考えている。自分の日々重ねる勉学や思想の研鑽、世界との繋がりを保つためのすべての行為は、そういった機会がいつ訪れてもいいような準備という副次的な効果はあるだろうと考えている。無論そのためにやっている、というわけではないが。
ある時から月に1回以上は行くようになった美術館巡りで得られる刺激は、自分にとっては「存在」についてより一層深く考えていきたいと思えるきっかけをくれているし、その時はまだ言語化できない感動がどこかで具体化し、そこで世界と時を経た接合を果たすことだってある。そんな瞬間に、機会が自分にとってより大きな存在になったというのを実感した。
本や映画は、私に今まで知らなかった世界を続々と見せてくれているし、その結果ずっと見落としていたものに気づかせてくれる。そして気づいたからにはしっかりと向き合わなければ、と気を引き締めさせてもくれる。
コーヒーは自分が思っていた以上に多種多様な味と香りを秘めており、ラテアートといった新たな楽しみ、少しずつだが確実に巧きへ向かっている実感を与えてくれている。
それらは本当に私にとって楽しい刺激になるからやっているのもそうだが、それだけでないというのを考えられるのも大きいんだなと改めて考えさせられる。
まとめると、私にとっての「得難きは時」というのは、機会という運命によって訪れるものを、本当に自分にとって大きく素晴らしいものにすることは難しい、ということ。尤もそういう機会が自分の日々の積み重ねがより良いものにしてくれるならそれはそれでいいかなあって感じ。
会い難きは友
そして友についても考えてみる。自分には、なんだかんだ今でもコンスタントに交流が続いている友達がいる。奇しくも誰一人として、学校が同じだったことは一度たりともない友達ばかりだったり。その友達に共通して言えるのは、
- 全員違う仕事
- 全員独立志向
- 全員根本的な主義主張はだいぶ違う、関係値がなければむしろ適合しない要素もある
辺りか。正直な話、こんな形で今も友好関係が続いているのはある種奇跡というか運命めいたものを感じずにはいられない。そもそもかかわりの始まりが、共通の趣味(ゲーム)で結果的にオフで知り合うに至ってコンスタントに遊ぶようになった人、高校時代に共通の友人の友人という体で一緒に遊んだ結果、就職してから学生時代以上に係るようになった人といった感じなのでなおさらだ。
ゲームで知り合った友達に関して、は自分含めてもうその共通の趣味は全員やってないし、友人の友人に関しても、その共通の友人との関係が色々あって自分の方が切れてしまっている。つまり共通ファクターという導線が失われているが、もうそれがなくても友好関係ができているということ。それが末永く付き合える予感がしてたまらなく嬉しい。
そして共通項の3つ目。これができる友達というのが非常に貴重だしこれこそ会い難き友なのではないか、と心から思える。ただでさえ共通の趣味だとか友人だとか経由で知り合った友達である以上、何かしらの共通点があるからこそ友好関係が生まれたわけで、それがつながる理由の一つにもなっていたのだろうと思っていた。そして長く付き合えば付き合うほど見えてくるものもある。「この人とは根本的な価値観が違っている部分がある」とか「この話題を出した場合高確率で意見が割れるし最悪言い合いになる」とか。後者に関しては実際そうなった場合もちょいちょいあった。でも関係は続いている。それは、お互いが相手のことを「こういう性格・信条を持った人間」であるということも長く付き合っていることで理解し合えており、それ含めて受け止めているからではないかと思っている。
無論、それができずに関係を終えてしまった友達だって少なくはない。とはいえ実際はそっちの方が起こりうることであるし、やむを得なかったことだと割り切れている。だからこそ、そういう衝突やずれ、お互いの環境の変化があってもなお変わらない関係を築けている友達の存在は、私にとっては非常に大きいし、心から有難く思っている。
私の大好きな小説の一つに「ピエタとトランジ」という作品がある。この作品は詳細についてはまた別の機会に語るとして、主人公のピエタとトランジの出会いである高校生時代から最期を迎える80代の老年期までの間を描いているのだが、特筆すべき点の一つに、二人の友人としての関係性は、少女ともいえる高校生から老婆になるまでの間一貫して変わらない、というところにある。一応一時期引き裂かれかける時期はあるのだがそれは割愛しておくとして、細かい趣味嗜好は合わないしひどいときはそれにダメ出しだって平気でするし口喧嘩だって少なくはない。それでもそういう言い合いだってできるし、ピエタにとってのトランジはトランジだし、トランジにとってのピエタはピエタである。その唯一無二の存在であるということは死ぬまで変わらないのだ。壮年期を迎えても老人になっても若いころと変わらない軽口叩きあったり共に相対する事件に立ち向かったり冒険したり、いい意味で変わらない関係性が築かれているのである。
自分も、今共にある会い難き友とそんな関係性を築けたら、どれだけ理想的な人生だろうか。この出会いもまた運命だとしたら、その運命に理想的な意味を持たせることができればこれ以上にない喜びだと思う。
