ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?——国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ

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昨日の土曜、国立西洋美術館の企画展に行ってまいりました。本当はアーティゾン美術館のブランクーシ展に行こうかなと思ってましたが当企画展が12日(つまり今日)までだったと知り急遽こっちへ駆け込み。

現代アート展に見せかけた国立西洋美術館の自問にして鑑賞者に対する問いかけともいえる企画展でした。個人的に全体を通した感想は、

  • 幾何学模様
  • 多角化した切り口
  • 西洋美術館が見落としてきたもの、向き合うべきもの
  • アートは対話であり美術館とは邂逅の場
  • 不確かの言語化-シュルレアリスム展のそれとの共通項と

に大別されました。そしてそれらを総括すると、「美術館は、アートを通して様々な時代・環境の下で存在したアーティストたちと、過去と今の社会、そしてやはり今という時代に様々な環境のもとに存在する鑑賞者が対話する場であり、それに適った「みんなの場」であれるよう国立西洋美術館はここに新たなスタートを切る」という再出発宣言だったと私は感じました。

幾何学模様

開幕と締めくくりがこれを多分に用いた作品だったから自分の中で凄く印象的。西洋美術館の間取り、外観のタイルはモデュロールという手法が用いられているようですが、それを使った絵、西洋美術館のタイルを再構成した彫刻を三方向から展示することで奥行きのあるキャンバスに案内されます。この美術館の建築そのものに着眼したアートは中盤にも展示されており、最後にも幾何学模様が敷き詰められたり星のようにちりばめられたりされた作品群が、西洋美術館のコレクションと並んで展示されておりました。その使われ方も様々で、びっしり敷き詰められることでアオリをより壮大に見せる作品や、作品の下地になっているかのように背景に充てられるダイヤ模様だったりで、幾何学模様という均質化されたものでありながら画一的ではないという多面的な存在感を見せつけておりました。

多角化した切り口

上記の幾何学模様の項でも、建物そのものに着眼点を置いた作品が作られるなどその片鱗はありましたが、本展覧会はその切り口がより多岐にわたっておりました。

銅板の腐食過程で発生する滲みを用いてそれを美麗な抽象画や風景画へと昇華する作品群がモデュロールの直後に270度三方からお出迎えして頂いたり、

一見真っ白なキャンバスにわずかな色彩を通すことで、色というものの発生過程を静画なのに動画っぽく見せる作品があったり(これを眺めているとその色そのものがゆらゆら揺れているように見えた。今までの展覧会でもそういう作品に少なからず出会えたが、こういう体験があるから美術展はたまらないんです)、

美術館が今まで無意識に客層から除外していた層に向き合うべき「提案」そのものを作品として展示したり、

事故や災害により破損した作品を「復元」させるための絹糸で縫合された刺繡のような作品がその破損作品と重ね合わせるように展示されたり、

明確な人や物、風景といったモデルやシュルレアリスムのような内的世界の表出とはまた一風変わった切り口が一堂に会しており、アートになりうる可能性の広さを感じられました。

西洋美術館が見落としてきたもの、向き合うべきもの

これは、全7章+幕間のうちで3つの章にわたって展開されてきたものであり、西洋美術館サイドも重くとらえてきた切り口なのかもしれません。具体的には、

  • 西洋美術の権威性が孕んでいるもの
  • 西洋美術館の展示手法や展示作品の傾向により、結果的に「一般的な客層」から除外されているマイノリティの存在
  • アートの二面性と、西洋美術館のコレクションを収集していた松方幸次郎にその観点はあったか
  • そもそもこの企画展ではどういう形にせよ何かしらの影響があったアーティストが参加しているが、参加していない多くの現代アーティストに対してはどれだけの訴求力があったのかというのは結局未知数のまま

といった部分に展示を通して切り込んでいたように思えました。この辺の内容、自分にとっても最も興味のある分野と専門的な見地からの意見を聞きたかったのでだいぶ聴き入ってしまいましたが、ものすごく長くなってしまいそうなので詳細は別の記事か何かで書きたいかなと。

アートは対話であり美術館とは邂逅の場

といった一面があるのではないか、と本企画展を通して私は感じました。そう思った最初の理由としては、展示の手法にあります。今回出展された現代アートの中には、本企画展に寄せて作成されたものも含まれており、その隣には西洋美術館の常設展で展示されているコレクションやかつての企画展で展示されていた古の名画たちが並べられておりました。それらの描画技術やモチーフ、イメージの形成に共通項が見られるものも少なからずありました。それは単なる作品の画風にとどまらず、例えばクロード・モネの睡蓮やウォータールー橋(だったはず、多分)といった作品は、モチーフ選びや筆遣い、画風自体が当時としては斬新だった印象派の中でも光に焦点をあてたもので特に斬新だったらしいのですが、それと並んだ現代アートも、いわゆる明確なモチーフがあるわけではなく、たとえるなら夢の世界のような非常に抽象的であり明確なイメージを説明しがたいが、それでも確かに見覚えがあるようなものに対して真正面から向き合った作品でした。そういった、当時としては斬新な概念との向き合いという共通項を見出すなど、単に画風に影響されただけにとどまらない過去の名画たちから何かを受け取った現代アーティストたちが一堂に会していたように思えました。それと同時に、アーティストの着眼点の鋭さ、創造性のすさまじさを思い知り、それを全身360度浴びれる空間にいられたことに対する興奮も冷めやらなかったり。

不確かの言語化-シュルレアリスム展のそれとの共通項

実は私、先月半ばまで西高島平の板橋区立美術館で開催されていた「シュルレアリスム宣言100年 シュルレアリスムと日本」にも足を運んでおりまして、そこで感じたのが、具現化はできない人間の内面というものを現実の後継や地平線、水平線を用いて表現しようとする試みに包まれた空間だったなあってことでした。本企画展も、明確なモデルのない抽象画も少なくない数見られ、描写や造形といったものにとどまらない多岐にわたる表現法が用いられておりました。実際、参加者の一人のコメントにも、未だない空間に触れるための絵画であるというものもありました。その作品についての率直な感想は「なんか明確なイメージのない自分の夢の中に出てきそうな光景」でした。その人の夢、というのは人が想像しうるものなのではないか。それを形にするのを試みるのも現代抽象画の一環なのかもしれない?とその作品群を見て感じました。モチーフも何もないにもかかわらず、どこか懐かしさも感じるような作品たちでしたが、そう思ったのは潜在的意識に潜むものだからかもしれない。それを具体化するためのヒントが、西洋美術館のコレクションにはあるのかもしれない。そんなことが、同じ空間に並ぶ往年の名画と現代アーティストたちの試みに触れることで感じられました。なんか、その試みってシュルレアリスムに通じるものがあるかもしれないなあと素人目には思えました。往年の名画も前述したとおり当時としては斬新、つまりは未だはっきりしない概念に触れるための試みだったのかもしれない。そこに過去と今の対話が感じられ、それを今この時期に企画展としてやったことに、凄く貴重な時間を経験させてもらえたなあと思いました。

やっぱり美術館での体験は写真で見るのとはまるっきり違う。360度四方から過去と今のアーティストたちの存在の証明を浴び、そこで自分の思考や感性を研ぎ澄ますことで対話できる空間だなと私は感じました。

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