私は、優しい人になりたいと思っている。では優しい人とはどういう人か。
私の思う優しい人、それは、他の存在に一個人として心から向き合い、その存在の置かれている状況に思いを馳せ、それを受け止めることのできる人のことと考えている。そしてその上で、その存在に寄り添った自分の意見を臆することなく発することができる人間が、強く優しい人間だと思う。
言い換えると、目を背けない、なかったことにしない、存在を存在として、そのすべてを確かに受け止める。そういう人間になりたいと思っている。
その過程として、感情の発露は大切な一歩だと思っている。発露された感情、というのは、自分にとって原初の反応であり、最も大事にしなければならない自分のプリミティブな部分だと思うからだ。まずどこから始まったのか、私はその存在に対して、その事象に対して、一体どんな受け止め方をしたのか。その先その存在と向き合っていくうえで、それを切り離すことはできない。そうしてしまった時点で、もうそれはその原初の感情から目を背けているし、その存在が最初に自分に与えた存在をなかったことにしているし、もうその時点ですべてを受け止める、という決意は破綻してしまうからだ。
その原初の感情をどう言語化するか、これは経験と研鑽を重ねていってより洗練させていくしかない。言葉は選ぶために学ぶのだから。
そういう意味では、怒りの発露、というのは数ある感情の発露の中でも特に難易度の高い分野ではないだろうか、と思うと同時に、それをほかの存在のために臆することなくできる人間を、私は優しい人間だと思う。
怒りの発露が難しいのは、そもそも怒りという感情がどういう形であれ向けられた側はもちろん、それを見ているだけでもいい気はせず、角が立つのは避けられないことが多いと思うからだ。怒りの内容ではなく「怒りの感情を向けられた」という事実の方に焦点が当てられてしまえば、コミュニケーションは成立しづらくなってしまう。怒りを向けられた側から怒り返されて双方ヒートアップする、直接向けられたわけではない周囲からは「怒り」の事実を諭されて温度差が生まれる、最悪話が通じないと見られ話を打ち切られる、など。怒る側もそれはある程度想像がついてしまうので、感情としては怒りたいのだけどそうしてしまえばコミュニケーションが成立しなくなることを恐れて平静を装うことはざらにある。そうなってしまうと、怒った事実もろとも怒りの理由そのものまでが「考え直すべき拙いこと」と考えるようになってしまい、自分の中で小さくなり、最悪霧散してしまう。
だけど私はあえて言いたい、他の存在のために怒れる人は優しい、と。自分はそういう人になりたい、と。
角が立たない怒り方というのができればそれは理想的だけど、残念ながらそんなことが常日頃できるほど私は器用ではない。しかもそういうことを考えすぎて本当は怒るべきなのに、くぎを刺すべきだと自分の感情が言っているのに何も言えず、角が立たないような立ち回りしかできなかった、なんてことは結構ある。その度に振り替えると自己嫌悪に陥ったものだ。Mr.Children「HANABI」の2番Aメロの歌詞のような心境だった。
で、結局それは自分の優しさと呼ぶには烏滸がましすぎる中途半端な弱さの表れなんだろうな、とも思う。そう思うからこそ、どれだけ拙い(角が立ちやすい)言い方であれ向き合うべき存在のために怒りの感情を発露できる、という人のことはとても美しいと思ってしまうのだ。自分が持ちたいと思っている強さと優しさを持った勇気ある行動だから。
最近よく思うことだが、自分の原初の感情というのは言語化なり記録なりしておかないと、だんだんと薄れていってしまうもので、角が立たない表現とかなんだとかをいろいろ学んだらあの時の感情を言語化しよう、みたいな悠長なことを考えていると「あれ?あの時どんな感じだったっけ」となることが結構ある。単に私の記憶力が後退しているだけなのかもしれないが。その時の感情というのは当然その時が一番最も鮮明に覚えているもので、時の経過とともにどんどん薄れていくことは避けられない。だから最も鮮明なその時に、多少拙くても発露し、言語化することは自分のためにもなると思っている。
だからこそ、後からいくらでも直そうと思えば治せる言い方を取り繕って何も言えないよりは、その場で自分の原初の感情を発露すること、それは目を背けない、なかったことにしない、存在を存在として、そのすべてを確かに受け止める。その第一歩だと思うし、大事なことだと思う。
そしてその怒りが、単なる自己満足に陥らないように常に自戒し続けることも大事なことなのだろうなと思う。つまりは、正しく怒れるようになりたい。
