第8の節気・小満
初夏の訪れを想起させる第七の節気「立夏」が終わり、第八の節気「小満」が訪れました。
「小満」とは、エネルギーが天地に満ち始め、万物が目覚ましく成長するという意味が込められているそうです。ちなみに大満はありません。立夏が新緑の時期でしたが、この小満の時期は畑の麦が収穫期に当たり、穂が風に揺れる光景が見られたり、春の花は散って実をつけ、夏の花が顔を見せる、そんな生命の循環が次のフェーズを迎える時季ですね。
わたしは先日、これは立夏末候「竹笋生」の時期のことでしたが、近所の里山に散歩に出かけましたが、入り口では鶯のさえずりで耳を癒され、里山は新緑に満ち溢れながらも、ハナミズキとよく似た花をつけるヤマボウシの花が咲いているところを、里山掃除のボランティアの方から教えられました。思えばこの時期に夏の花が少しずつ顔を見せていたと思います。夏の花、と言えば私の頭の中ではヒマワリが真っ先に思い浮かびますが、ヤマボウシのような白い花も夏のイメージありますね。草原に白いワンピースと麦わら帽子は近代西洋画でも結構見られる光景だと思いますし。
初候「蚕起桑食」(かいこおきてくわをはむ)
そしてその小満の初候を飾るのは、「蚕起食桑」。かいこおきてくわをはむ、と読むそうです。これも意味は連想しやすい。蚕が桑の葉を食べ始めるという意味ですね。それと同時に、そんな蚕の主食たる桑の葉を摘み取る季節でもあるそうです。
ここから先は蚕の搾取構造の話になるので、閲覧は自己責任でお願いします。
わたしのなかでの蚕のイメージと言えば、糸を出して繭になって蛾として羽化するガの幼虫といったものでした。そしてヴィーガニズムを学んだ今となっては、絹の原料として養蚕業の被搾取生物という側面もあります。そのため、せっかくその蚕にまつわる候である以上、蚕について少し調べてみましたが、これはだいぶ頭を抱える内容でした。
蚕はカイコガの幼虫で、元々はクワコという種類の蛾をルーツに持っていたようですが、それが長い年月をかけて家畜化され、今ではクワコとは完全に別種となっており、蚕は人間の介助なしには生きられない生物となってしまっております。具体的には、成虫になっても空を飛ぶことができず、口はあっても餌を食べられないため、交尾をするとすぐに死んでしまう。そして養蚕業においては絹の原料となる糸を取り出すため、繭になった段階で羽化する前に熱処理をします。当然熱処理を施された繭の中の蚕は殺されます。そしてその絹糸を大量に取り出すため、やはり他の家畜同様狭い空間において自由を奪われた状態で閉じ込められたまま飼育されるわけですが、密度が非常に高い空間というのは人間が満員電車に不快感やストレスを感じるのと同様、他の生物にとってもストレスでないわけがないのでして、そんな環境に24時間置かれることとなれば、ストレスもそうですが環境的にもよろしいわけがなく、疾病により苦しむ固体も少なくない数出てきます。
つまり、蚕の現状は、人間が絹を消費するという、言ってしまえばやらなくても生きていけることのために、自由を奪われた生態に作り替えられ、満員電車同然の劣悪な環境に日夜置かれ、殺されるためだけに育てられて最後は蒸し殺される、そんな搾取の上に成り立っているということです。一応、熱処理をしないで糸を摂る方法も模索はされているみたいですが、取れる量があまりにも少ないので産業の大量生産大量消費構造とは両立しえないため、結局蚕搾取は続いているのが現状です。そもそも、仮に蒸し殺さずに糸を摂れるようになったとして、人間が蚕の生態を自分たちの都合で歪めたことについてはどう取り返しがつくというのでしょうか。
まさか二十四節気七十二候で、このような搾取構造と向き合うことになるとは思っていませんでしたが、それについて逃げずに向き合うのもまた人間が知性を持った理由なのかもしれない、とわたしは考えます。そしてこの候が作られたときは、まだ産業革命よりはるか昔の時代、家畜化自体はされていたのかもしれませんが、産業化以前は祖先であるクワコからも糸を採取していた、という話もあるみたいですから、少なくとも劣悪な環境で自由を奪って殺すためだけに大量に生み出す、といった構造はなかったのかもしれません。人間は蚕を育て、蚕が羽化した後の糸を衣料の生地として使わせてもらい、蚕は次の種を残していく。という構図だけで、だから今よりはるかに絹は貴重だったのかもしれない。ただ、家畜化、というのが科学が発展する前から行われてきたものであるのならば、それについてもどこかで知るべきなのかもしれない。生物の生態そのものにまで干渉する技術を。おそらくはダーウィンの時代よりはるか前から確立されていた生物の種の変化を人為的に行うということがはるか昔から行われてきた、という話があるのであれば。
これを知ることはわたしにとっては必然だったと思うし、知ったからこそ向き合い、搾取されている生物のために、地球の循環のために何ができるかという考えにまた一つ考慮すべき点が増えたと思う。知らなければよかった、と思うようなことかもしれないけどわたしはそうは思わない。知ることができる人間は知ったからには向き合う責任があるし、知る、ということがいつも楽しいことや笑ってやり過ごせるようなことばかりではないと思う。そしてそれと向き合い、立ち向かうべきものに立ち向かうのが、知性あるものの責務だとわたしは思う。それを二十四節気、七十二候の分野で考えることになるとは思っていなかったけど、考えることができてよかったと思う。
食べ物
この時期の食べ物としては、そら豆があります。
ソラマメは、初夏にしか味わうことのできない旬の短い野菜。一説では、さやが空に向かって上を向いていることから「ソラマメ」と名付けられたとか。鮮度が何よりも肝心で、刈ったらすぐに塩ゆでや塩焼きにして味わうのが良いのだとか。
そういえばスーパーにも並ぶようになりましたね、そら豆。そんなに足が速いものだったとは。今日にでも買ってきて塩焼きにしたいなーって思います。間に合ってくれ。
この時季の光景
蚕起食桑の時期の光景としては、「田毎の月」というものがあります。これは斜面に沿って連なる棚田に移る月のことです。棚田、自体が都心ではまず見かけない田園風景ですね。もう今の田園都市線沿線は再開発の波で住宅ばかりになりましたし。中でも長野県千曲市の冠着山(姨捨山)が有名だそうで。この時期にちょうど田植えが終わり、水を張った水田が立ち並ぶわけですから、その一枚一枚の水面に浮かぶ月影。想像しただけでも幻想的な光景ですね。いつか見て見たいものです。
ということでこの時期は、とりあえずソラマメを食べたいですね。田毎の月は近くで見られそうな場所がないか探してみて見られそうならそこに行ってみたいなって思いますが。
