芒種の初候「蟷螂生」

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小満が終わり、次は第9の節気「芒種」となりました。この時期にはかつての梅雨入りの目安となった時を示す雑節「梅入」もあります。最近は温暖化による気候変動の結果梅雨入りはだいぶ早くなりましたが。ある意味どれだけ産業革命前から乖離してきたかを示す名残ともいえますね。

そしてその芒種、芒というのはイネ科の植物の穂先にある針に似た部分のことだそうです。あの針金とも栗のいがにも見えるあれの事。その種、つまりはこの時期に稲の種を植えることから芒種という節気が名付けられたんだとか。ちなみに前の候で冬に植えた麦は刈り入れたので麦の種もまた改めて植えていたそうですね。年に2回収穫の時があるのですね麦は。

その前の麦秋至では梅雨入りの前に麦を刈り入れてしまうことからそう名付けられていましたが、この芒種もまた同じで梅雨で雨が続く前に田植えを済ませることが関係しているそうです。機械のなかった当時は種1つ1つを手で植えていたわけですから、日をまたぐ一大行事だったと思います。何より今とは比較にならないくらいに田が広かったはずですからね。

そんな田植えが終わったころに梅雨入りを迎え、色とりどりのアジサイが外を鮮やかに彩る、そんな季節ですね。雨はもう毎日賃金労働に追われるようになった今となってはだいぶ厄介な存在となってしまいましたが、元々地球の循環にとっては熱せられたことで水蒸気となって成層圏まで運ばれたものが雨として再び地上に戻ってきて、大地を潤し、熱された地上を鎮めるのですから、これもまた地球の循環の一工程にすぎず、そしてまた生物たちが存続していくためには必要なものなのですよね。そう考えると、雨が傘を打つ音に耳を聳てて見るのも悪くないなって思います。地球の呼吸を感じられるような気がするので。というか感じたいなって思うので。

eco検定で環境についての基礎を体系的に学んでいるからでしょうか、こんなことを考えるようになったのは。それとも二十四節気にかこつけて思索を巡らせるようになったのかな。あるいはその両方かな。なんにせよ、知ったらもう知らなかった頃には戻れないとよく言いますが、それはきっと辛かったり大変なことだけではないと思うな。自分が知らなかっただけでずっとこの情景はあったんだと思うと、今からでもしれてよかった、と思うことにしました。

芒種の初候「蟷螂生」

さて、芒種の初候は「蟷螂生」(かまきりしょうず)です。名前の通り蟷螂が生まれる頃……ではなく、春に孵化した蟷螂の子供たちが成虫へと育つ頃だそうです。蟷螂と言えば、スズメバチですら時には倒して自らの食料にしてしまうくらいの狩猟本能の持ち主で知られていますね。動いている獲物しか狙わないうえ、イネや農作物には目もくれずに只管虫を借り、食していく肉食の昆虫。故に農家の間ではありがたがられているんだとか。確かにバッタとかをよく食べてるイメージありますね。でもそんな蟷螂も、自分より大きい相手にも果敢に立ち向かっていくから返り討ちに合うこともけっこうありますし、蜘蛛の巣に引っかかったら最後、もう逃れるすべはないんだとか。

蟷螂と言えば、小学校の頃は卵を見つけたらクラスの子たちがこぞって集まったものですね。場合によってはそのまま家に持って帰って孵した子もいたような。それくらい子供人気の高い虫だった記憶あります。今はどうなのかわかりませんが。とはいえ、京都の祇園祭では神の使いとしてあがめられていたりと、何かと人間とも縁深い昆虫のようです。子供たちに人気だったのも、昔から人間にとってありがたい存在で先祖からプラスの感情が伝搬してきたのかもしれません。

この時期の季語には「五月富士」というのがあります。実際今は旧暦五月ですから、それにちなんでいるのですが、富士山の雪が解け、夏の山としての顔がこの五月富士なんだとか。今の場所からは富士山がなかなか見えませんが、新幹線に乗ったら見えたりするかもしれませんね。

そして旬の野菜はトウモロコシ。スーパーにも生のものが並び始めました。この時期のトウモロコシはひと房100円前後で買えるのでだいぶお得ではあります。タンパク質も食物繊維も豊富なので、余裕がある時にはぜひとも買って味わいたいものですね。

ちょっとした日記みたいなの

ここからは最近のわたしについて。

わたしは、今月の目標に「自分を取り戻す」ことを勝手に掲げている。何を、というと、時間だったり生きる道だったり、そして「自分が何者か」をラベルや規範ではなく、自分自身の言葉で、自分自身のありかたで表現すること。時間はまあ、現時点だと賃労働はどうしようもないので、起きる時間と寝る時間を固定したことで、自分の意思で寝る時間、起きる時間をコントロールできており、それが生活にメリハリを与えてくれるし、何もしない、ぼーっとしている時間、惰性で何かする時間がだいぶ減った。それが「自分を生きている」と思えるし、これが自分を取り戻すことなんだと思う。

生きる道も同じ。わたしが向かうべき「正しい姿」を自分なりに再構築し、到達すべき場所を自分なりに設定している。勿論夢は変わらない。それらを見据えて、それらに従った行動を最近は摂るようにしている。大分自分にうそをつかないようにしている。それは、勿論楽しいことや気持ちいいことばかりではないのだけど、自分で選択したということが起こる結果を引き受ける責任感を自分に与えてくれるように思える。この辺はもう少し言語化したいなって思う。

そして「自分は何者か」。大きな枠で言うならばジェンダー・アイデンティティの話が最たるもので、それだけじゃない自らを構成する要素、そして自らが今貫こうとする信念。そして、それらを語ろうとするときに、既存のラベルや規範(具体的には二元論で語られるジェンダーバイナリーだったり、〇〇イズムといった定義の元に決めつけられる主義主張だったり)が大分自分にとってはノイズであり、また補助輪でもあるなと思いつつ、自分の中での構築を続けている。最近読んだジェンダー関連の本で、バイナリー化された片方の極致ともう片方の極致、それが二元論であり、その間に無数にあるスペクトラム上の存在はそのバイナリー論ではいないものとして扱われる。そのいないもの扱いされるものが、いないものとなるのはそのラベルや規範を絶対視し、それ以外の存在を排除するからであり、だけどそれらのラベルや規範というものの存在から外れた位置にいる、というのはそれらの存在なしには語れない、というアンチノミーを包含している。だからわたしはその規範を壊したいとは思わない。だけどそこに完全に当てはまるなんてのはもうありえないと自分の中では思えているし、それが何なのか、いったい自分はどこにいるのか、というのを、このプライド月間に少しでも言語化したいと思っている。本当にずいぶん昔に、そういう存在だったはずの自分を、自分を守るために捨ててきたことを最近になってようやく思い出したから。だからもう一度見たいと思っている。今度は絶対に捨てないと。

本当にまとまりがない文だと思うし、具体性の欠片もないんだけど、それでも今吐き出しておきたかったから吐き出しておく。今読んでいるノンバイナリーの本では、波乱万丈な旅を続けてきたノンバイナリーたちの体験記が記載されている。わたしはその度から早々に降りて、その自分を捨ててきた人間だけど、捨てた自分をまた見たいと思っている。そんな自分にその本の旅人たちにシンパシーを感じる資格があるのか、そもそも自分は本当にそうなのか、そうなのっていいのか。それ含めて考えたい。

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