本日は、大暑の初候「桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)」の最終日。いつもは初日に日記を書くのに今回は最終日にしたのは、この日が特別だから、というのが大きい。
7月26日。今から9年前のこの日、何の罪もない19人もの命がたった一人の手によって奪われた。その動機も至極身勝手なもので、「国のお荷物になるような障がい者は殺すべきだと思った」といったようなことをその人殺しは悪びれもせず言い放ったことも忘れることもない。そしてそれ以上に、その言説に対して「やったことは許せないけど考えは理解できる」などといった意見がインターネットでも実社会でも聞くことがあったことが信じられなかった。思えばあの時から、わたしは無条件に信じていた人の全盛、社会秩序というものを疑い始めたと言っていいのかもしれない。19人は、殺された人数としてカウントされるためにその日までの人生を生きてきたわけではない。一人一人、それぞれの生をまっとうに生きてきた命だったのだ。今もなお暴力に加え飢餓を用いてイスラエルやそれに連帯する西欧陣営に殺されるパレスチナの人たちだってそう。かつて関東大震災の時に自警団たちによって殺された朝鮮人や共産主義者だってそう。殺された人数、などになるために生きてきたわけじゃない。わたしにとってこの日は生涯忘れてはならないと思っている。子のことを胸に刻み、吞まれないように。
9年経った今、わたしの生きる社会ではあの時のような殺戮が繰り返されるのではないかといった不安に駆られることが多くなる。インターネットでも実社会でも、外国人、LGBTQ+、生活困窮者、女性、そのほか社会の多数派・権力側でない周縁化された人たちに対する憎悪を煽動する言説、デマ、むき出しの悪意が明らかに以前よりも表出している。ただの世間話のようにそれらが話題として使われることも多くなった。9年前ひびが入り始めた人間の善性への信頼は、ボロボロと崩れつつある。もう人間に決して心を開けないと思う日もそう遠くないかもしれない。なぜならわたしもその悪意を向けられる属性を包含しているから。そして事実としてその悪意をインターネットでも実社会でも向けられた経験があるから。それはよりひどくなっていくかもしれないという不安に駆られない方が難しい。だからこそ呑まれたくない、この恐怖に。そしてわたしにもこの社会に蔓延する差別・抑圧が内包されていないとは言い切れないし、そんなことはないと思っている。どこかしらにあってもおかしくない。そしてそれはいつどこで表出するかわからない。それが誰かを傷つける形で表出する前に、それに気づきたい。それを今の社会のように嬉々として表出するのではなく、人間に地球から与えられた知性・良識・理性をもってして抑え込み、克服していきたい。だからわたしは抗い続ける。命ある限り。そのあらがいの道が、わたしを正しい方向へと導くと信じたい。その先に、わたしが叶えたい夢があるはずで、そこに向かう自分こそがきっと自分がなりたい自分なのだろうと思う。
これから税理士試験に向けて、可能な限り向かい続ける。結果は今回も絶望的だとは思うが、それがここで歩みを止める理由にはならないし、合格するという結果だけを求めるならば、もっと先んじて手を打つべきだった。だからこそ、そこへ向かう道筋を無駄にはしたくない。流れに呑まれない。自らが向かうことで、その先にまた見たことのない道が、景色が広がってまた選択して、新たな旅路を刻み続けると信じたいから。
これは、誓いの文。
わたしが向かい続けると、あらがい続けると。旅を続けるという。
明日も、そんな気持ちで登りゆく朝日を見られたらなって思う。
