雑多な思考整理3「強くて立場ある人」

この記事は約5分で読めます。

前の記事で、知性について自分が考えていることを言語化してみた。ざっくりまとめると、地球上の一存在として、存在するありとあらゆる生物の存在に思いを馳せ、地球が、人間含めた生物が、より幸せに、理不尽に合わないためにできることを考え、実践し、顧みるために知性はあると少なくともわたしは考えることとした。そしてヴィーガニズムもその一環だったりする。

ヴィーガンについては以前書いた記事に説明は置いておくとして、最近はようやく身の回りの人たちにも少しずつカミングアウトできるようになった。職場の人もそうだけど、付き合いの長い友人にも今まではなかなか話せなかった。なんせついこの間までは会って遊んだら夕方の飲み会で当たり前のように動物性食品を全く気にすることなくがつがつ食べていたのだから、急に主義主張を転換したともなれば、気が気ではないだろうとも思ったから。

ともあれ、流石にこのまま離さないままというのも、なんだか友達のことも自分自身の事も騙しているようでいい気はしなかったし、確実にお互いのためにもならないと思ったし、何より考えながら実行しないのはわたしにとっては知性の放棄にも等しいので、この間遊んだ時の夕食時に打ち明けた。

「何かを考え、実行できる立場にある人」

何度もデモンストレーションしたとおりに、丁寧に言葉を選んで話した。そしてわたしは、「誰かから言われたからではなく自ら考えてそうする、と決めたことでないと本当の意味でその人の行動にならない」と考えているので、友達にもヴィーガンになるよう勧めることはしなかった。店でもわたしは自分が食べられるものを選んで注文するだけだし、だから別に付き合い自体は今までと変わることはなかった。

そこで意外だったのは、わたしがヴィーガニズムを実践することに興味を持ったのか、それについて色々と聞かれたことだった。なんでそうするようになったのか、とか、以前口にしていたものが恋しいとは思わないか、とか。わたしにとってヴィーガニズムで実現すべきだと思うことは、環境や健康は副次的なものにすぎず、地球上のあらゆる生物が不当に搾取されることなくその生を全うできることだと思っているので、そのために自分ができることをやりたいから、と答えた。定義上は動物搾取からの脱却だが、わたしは綿花やコーヒー、バナナの栽培のために生態系を破壊することもヴィーガニズムの観点ではよろしくない事である以上、そこを動物に限定するのは個人的に違和感を持っているから、そう答えた。そしてそのためにやっていることだし、今はそのヴィーガン料理やお菓子を色々と開発できていてそういった楽しみもあるから、前に戻りたいとも思わない(まあ知った以上は戻ることは絶対にできないんだけど)といったことも話した。

すると、友達のうちの一人が、わたしの姿勢自体は肯定的に捉えてくれつつ、こういった言葉もわたしに残してくれた。

「マタリさん(仮名:実際友達には別の名を名乗っている)は、ヴィーガンを知ってそれを実行できる立場にあって、実際にそれを実行できているってのがらしいな、って」

その言葉は、今でも私の頭に焼き付いて離れない。実行できる立場。その友達の目にわたしはどんな立場に映ったのだろう。

それだけの経済的余裕がある人間?

実際ヴィーガニズムを貫くには、確かにお金はかからない、というと嘘になる。食材はハッキリ言って安い。動物性を選ばない方が普通に安くなる。問題はスキンケア用品とかの日用品の方だ。動物性原料や動物実験を行っていないものは当然として、さらには排水として流れた結果海洋プラスチックとなったり化学原料や成分によって富栄養化やプランクトンの変異を引き起こしかねない素材なども当然アウトになるが、そういう天然素材のみのものは流石に高いし、その辺のスーパーで気軽に買えるものも現時点だとほとんどない。だからヴィーガン=高コストというのは半分正解で半分間違いともいえる。

ちなみに経済的余裕で言うのであれば、ぶっちゃけそんなにあるわけではない。毎月かつかつだし、何なら普通に借金をこさえていて今年はその返済のために節制をしなければいけない。それでも、そういったヴィーガンスキンケアを選べるだけのお金がある時点で、十分余裕があるともいえるのかもしれない。

そういったことを考えるだけの精神的余裕がある人間?

確かに、わたしは幸い自身の生活を送るだけで一日の時間全てがなくなるほど多忙というわけではない。隙間時間や自分の時間自体は作れる。その時間で知る機会を作ることができたし、現代人が活きるうえで絶対的に優先順位が高いというわけでもないものを知る、といったリサーチ行為に自らの時間や労力を惜しまないといった余裕があってこそ知ることができた、というのは事実。そういう意味では、精神的余裕は確かにあるのだろうな。自分ではあまり気づいていなかったけど、人から言われることで見えてくるものもある。

でも、そこで友達はそういった余裕がありながら、あえてヴィーガンを知ることを選び、それを実践することを選んだ人間としてわたしを見てくれたという事実は、もっと大事だと思うし抱きしめたいと思っている。それはわたしが考え、選択し、実行し続けているものを、たとえ当人は同じ道は歩めずともそれを肯定し、わたしという存在を見てくれたから出た言葉に他ならないと思っている。

だからこそ、わたしもまた、誰もが実践できない、いや、実践しないことを選ぶ人もいると思うし、そういった人たちの抱えてる背景には思いを馳せるべきだとも思った。そして、そこに相応の理由がある人とは、わたしと友達の例のように、疎通し合えるのだと思った。そういう意思の疎通は、相手への想像や興味を抱き、思いを馳せる事、そして自らを主観的にも客観的にも知ることがあって実現するのかもしれないということを学べたような気がする。

知性は、自らを高めるだけのものでもなければ、地球に資するためだけのものでもない。他者と疎通し、相互の理解をしあうためのものでもあるのかもしれない。そしてそのすべてには、自分以外の存在に思いを馳せる、ということが大事であり、それらから生ずる自らの感情もあってより知性は研ぎ澄まされるのかもしれない。

そして別の日に友達から言われた強い人、についての話は長くなったから次にします。

タイトルとURLをコピーしました