自分の頭で最近色々考えていたことの言語化シリーズもようやくストックされていたものはラストとなった。
現在、わたしはいくつかの社会問題に自分の立ち位置でできる形でコミットしている。ヴィーガニズムの実践という形で反差別、地球環境問題へのコミット、座学によるジェンダー・アイデンティティのリサーチ及び言語化プロセスの実践という形でのジェンダー・アイデンティティへのコミット、SNS内での拡散、歴史のリサーチ、寄付という形でのパレスチナ人へのジェノサイド、シオニズムによるあらゆる侵略行為と暴力へのプロテストへのコミット、同じく歴史のリサーチ、言語化という形での反歴史改竄主義へのコミット、など。ではそれらをなぜするのか。自分に問いかけてみたけど、答えはシンプルに、「自分がすべきだと思ったから」に尽きる。
こういう話は、基本的に大抵の場で忌避される。しかし、忌避することそれ自体が、この問題を引き起こしている元凶たちにとっては非常に都合がいい。咎められることなく自らの暴虐を進められるのだから。自分たちが何もしなくても、都合の悪い意見を発する人たちに対し、それらの問題にかかわりたくない人たちが「難しい問題出すな」「楽しんでるのに水差すな」「政治的なこと言うな」など、己の快楽を優先するがために口を閉ざそうとしてくれるのだから対立意見を封殺するのにこれほど楽なことはない。とはいえ、それらの閉ざそうとする心境も、前の記事に書いたとおり、心身ともに疲れ切っている人たち、という事情を鑑みると無理はないと思うし、だからこそそういう構造自体に、わたしは理不尽さを感じている。自らの心が癒えている状態でないと、立ち向かえない問題を、立ち向かえない状態で突きつけられるのはわたしだってあまりいい気持ちはしない。自分の無力感と罪悪感を嫌でも突き付けられるし、それでさらに心身がすり減って余計健康を損ない、さらに無力になっていくから。
とはいえ、最近はもう自分に噓をつきたくはないし、自分が癒えたならば可能な限りコミットしていきたいと思っている。それをそうすべきだと思うから、そうすることで、地球の一存在としての自分を、正しい方向へと進めてくれると自分が信じているから。それが間違っているならば顧みて正せばいいし、そうならないように何度も何度も検証していくつもり。それが「知性」を持った人間として、知を積み重ねられる立場にあるものとしての責務だと思っているから。
では、「すべきこと」とは言うけれども、そう思うに至って何か興味を持つような要素がそれぞれにあったのか?という問いを自分に投げかけてもみた。答えは実はノーだったりする。はっきり言って、ヴィーガニズムは自分の夢にも嗜好にも直結するからともかくとして、それ以外に関しては「興味があるから」調べて、「すべきこと」だと思った、というプロセスは踏んでいない。「すべきこと」だと直感的に感じて調べた結果、やっぱり「すべきこと」だった。といった感じだったりする。
興味がないのに調べたの?という問いについても実際そうだったのだからそうだとしか言えなかった。たとえば、自分の好きなアーティストやキャラクターやクリエイターがジェンダークィアだったの?と言われたらそうでもない。というか実際別に誰がどういったジェンダーアイデンティティ化については実際のところ今もさして興味はない。流れて来たら知る程度。実際宇多田ヒカル氏がノンバイナリーだと知ったのも数か月前だったりする。パレスチナや朝鮮半島に友人がいるのか、という問いについてもノー。わたしは外国どころか国内にもほとんど友達はいない。流れてくる人たちの中に興味を惹くものがあったのか、という問いもノーだしそもそもそんなことを抱くこと自体傲慢にもほどがあると思っている。
興味がないのにコミットするの?という問いを自分に投げかける。そうだよ。だからこうしているわけで。そしてそこに付け加えると、興味とコミットは連動しているとは限らないとわたしは思っている。だって、コミットしなければならない大事な社会問題というのは、興味の有無でその価値の重さが判断されるべきじゃないと思うし。というよりも、社会問題自体その構造上、ほとんどが暗いものであって、暗いものを忌避する人間にとっては興味を持たれる機会自体がほとんどないのは無理ないと思う。でも放置していい問題でもないでしょ。となるからこそ、これは事の重大さを自分なりに調べ、考えて、自分のできる形でのコミットの仕方を考えていくことが、少なくともわたしの立場でできる事なんじゃないかなと思ったから、わたしは今こうしている。
そして、社会問題というのはそのほぼすべてにおいて、関連する人間の、地球上存在の命あるいはそれと同等レベルの尊厳が関連している。人間一人一人の人生だったり、自然生物たちが何物にも脅かされることなく生きられることだったり。それらは、決して他の人間の興味を惹くためのものじゃない、とわたしは思っているし、その興味の有無で価値判断がされるものじゃないと思う。
要するに、興味の有無と重要性は特に関係はない、とわたしは考えている、ということ。だから「すべきだと思ったこと」は、仮にそれの中核をなすものに興味がなかろうがコミットするし、興味があるものについてはたとえそれが大して重要なものじゃなくても、わたしの心を癒すものとして自らをケアするときに積極的に打ち込むし、それを自らの人生の支柱として打ち立てることを自分の夢としている、ということなのかな。まあ、興味があるものについては、実際趣味ってそういうものだよねって当たり前の話かもしれない。
あとはまあ、興味と重要性を関連付けたりすると、「面白いからいいじゃん」とか「この人は面白いから多少やんちゃなこと(大抵差別発言)言っても多めに見てよ」とかの、目を惹く何かがある=興味を持たれやすい存在がそうでない存在を踏みにじった時に前者の悪事を矮小化されやすいって危険性もはらんでるから、そういう意味でもあまり関連付けない方がいいかなーと思ってたりする、自戒も込めて。自分が興味のある存在が、そうでない人を踏みつけた場合の向き合い方として。
言いたいのは、人間も地球上の生物も、誰かや何かの興味を惹くためにその生を全うしているわけじゃないし、誰からも興味を抱かれなくても、凛として存在していいんだってこと。というか、自分がそういう存在になりたいなって話。
