今日で立秋も終わり。明日からは処暑。この暑さが終わる気配は全くしないけど。それだけ節気が設けられた時と今とで寄稿が様変わりしていると思うと随分と遠くまで来てしまったんだなあとも思う。
今日、田嶋陽子氏の著作「新版 ヒロインはなぜ殺されるのか」を読み終えた。これは元々1991年に刊行された「フィルムの中の女-ヒロインはなぜ殺されるのか」のリブート版らしい。あとがきで初めて知った。元々これを読もうと思った理由が2023年の某映画の某キャラの末路に納得がいないままに書店をさまよったらたまたま見つけたから、という実に偶然な出会いだったわけで。
全体を通して思ったのは、わたしはやっぱり誰かを踏み台にしたうえでの成長や成功、みたいな描写のフィクションが大嫌いなんだなって言うことを再認識できたこと。ヒロインと蜜月の時を過ごしたとしても、キャリア向上のために用済みとなって男は責任を負うことなくヒロインは破滅したり、愛のようなあいまいな概念の元で経済的に完全に依存するような構造に絡めとられたり、自身のキャリアをヒロインだけが断ち切らないといけない、才能の開花の機会を奪われる、だけどそれは愛のためだったりパートナーの生長を促したり、そういうのに納得がいかないのが自分の中にあったんだというのを確信が持てた。それに納得しているならいいんだけど、奪われた構図からの脱却を望んだり、無理やり自分を納得させてきた人がその痛みを誰かに押し付ける連鎖の構図が生まれたりと、それらをエンターテイメントの裏に仕込むことで、それらを受け取ることができる人もいる、という映画の多面性を感じることができた。わたしは映画にしろ漫画にしろあらゆる創作において寓意というのはもう切っても切れないものと思っているので、それらを感じ取ったならばそれをありのまま見たいと思っている。最後の章で引用された映画「私の中のもうひとりの私」の中の「見たいものだけ見て、聞きたいものだけ聞く」結果、「何もかも持っているようで何も持っていない」人間になってしまう。という一文がありましたが、それは自分にとっても自戒を込めて胸に刻みたい。何があったとしてもそれから目をそらさず向き合い、その上で自らが納得し、自らが進むべきと信じる正しい道を歩んでいたいと思う。
ところで今日は帰り道、度を越えた空腹に襲われたんだけど、全身が発する危険信号には素直に従った方が良いと思った。指先から足元まで全身で「これもうダメだよ、エネルギーないよ」って警告をガンガンに鳴らしていた。多分これ無視したら帰り道熱中症になる、って感じの。だからめったにしない買い食いをやった。ぶどうジュースなんだけど。単糖類ですぐにグリコーゲンになってエネルギーに変換されるから即効性のある炭水化物だった。勿論200ccでは完全回復とはいかないんで適度に空腹の苦しみを保ったままだったんだけど。人間、たまに頭で考えていることを身体が裏切るみたいなことがあるけど、それでも身体だって自分なんだから、その身体が発するものには素直に心を傾けて、一体となることでそれに従って動くのが良いんだと思う。それが生物として自然な姿なんじゃないかなって今日は思った。
明日はそろそろ中期計画を完成させたいし、事業者としての名前も決めたい。
