先日「窓ぎわのトットちゃん」を読んだ勢いでそのまま去年映画公開ちょい前あたりに刊行された続編、これも映画観た時に買ってずっと読めてなかったんでこの度熱が冷めやらぬうちにと思い読んでまいりました。
感想としては、黒柳徹子氏の運命めいた半生を描いた年代記としての側面と、ずっと悲惨な被害者目線で描かれることがほとんどだった民衆視点の戦争を、黒柳氏視点で見つめ直した年代記としての側面がある一冊でした。
黒柳徹子氏の年代記
本作は、前作「窓ぎわのトットちゃん」のラストより少し前の疎開前から始まり、黒柳徹子氏が俳優として活躍している中、アメリカのメリー・ターサイ演劇学校へ留学するために渡米するところまでのお話でした。そこで黒柳氏=トットちゃんが経験した疎開前の暮らし、疎開時の暮らし、帰郷後の学生生活、NHKデビュー、俳優へ転身といった彼女の人生が様々な出会いと別れを重ねながら描かれてました。まず開幕早々に、というか前書きで、前作や映画を見た人ならば胸が痛くなる事実をトットちゃんが知ることから始まるのが、また痛ましい。しかし前作でも描かれていたトットちゃんの嬉しいこと、悲しいこと、相手に飾らない真っ直ぐな心で接することはどれだけ歳月を経ても健在であり、そんなまっさらな目線で描かれる世界は、実際その世界に身を置いたことのない私にも凄く没入感があると言いますかスッと入ってくるように感じました。子供の世界だけじゃなく、芸能界という世界でもそれは健在で、嫌なことがあっても腹立たしいとかではなく、悲しいと感じるのがああ、あの時のトットちゃんだって感じでした。
また、前作では小林宗作氏の「君は、本当はいい子なんだよ」という言葉に救われ、ずっと大切にしていたトットちゃんが、その言葉と同じくらい大事にしている言葉があることが明かされました。喋り方について先輩から心ないことを言われて傷ついていた彼女に、彼女を大役に抜擢した劇作家の飯沢匡氏がその喋り方のままでいい、それがいいのだから。だから大丈夫と彼女の個性を、ありのままの持ち味を必要としているという言葉でした。自分のこれまでを否定されたような気分で足元がぐらついていたさなかに、それを受け止めてくれる人と出会えたというのが、彼女が運命めいた出会いを重ねてきたのだなって象徴のような気がしました。両親、トモエ学園の先生や生徒、疎開先の親切な大人たち、学生時代の自らを強く持った先生たち、そして芸能界での飯塚氏やその先に出会う渥美清などの生涯の友人と、彼女の出会いは運命で決められているのか、ってくらいに光り輝いていました。でもまあ、そんな運命めいた出会いも、前述したようなトットちゃんの感性を持ち続けているのならば納得だなって思わせるような温かい筆致でした。
また、トットちゃんはどうやら本当は俳優業などをやるよりは「子供に絵本を上手に読み聞かせてあげられる御母さん」になりたかったようで、結果的に家庭に入るのではなく世界中の子供たちに寄り添い、声を届ける存在になっているというのも、凄い人生だなって思いますね本当に。
黒柳氏視点で見つめ直した戦争記
そしてこの作品の前半は、黒柳氏の視点から見つめ直した戦争という側面もあるんじゃないかな、と思いました。
前書きからいきなり始まる彼女の一番の親友の真実であるのもそうですが、特に印象的だったのは、トットちゃんがスルメのために日章旗を振った話でした。食料が配給になって久しく、その配給すらどんどん渋くなり空腹が激しくなった時期に、駅前の出征式で日章旗を振ればスルメが貰えたため、スルメ欲しさにトットちゃんは足繫く駅に通っては日章旗を振り続けていた(そしてスルメが貰えなくなったらすぐにやめた)が、それが何を意味していたかを以下のように振り返っていた。
戦争中はよくわからなかったけど、戦争が終わり、スルメを貰って万歳をするのは、決してやってはならないことだと知った。
(中略)
トットが日の丸の小旗を振って兵隊さんを見送ったのは、スルメの足が欲しかったからだ。でも、兵隊さんたちは旗を振るトットのことを見て、「見送ってくれるこの子たちのために戦うんだ」と自分に言い聞かせて、戦地に赴いたのかもしれない。
もしそうなら、そしてその兵隊さんが戦死したなら、その責任の一端はトットにもあるはずだし、スルメ欲しさに「バンザーイ!」と叫んだトットは、兵隊さんの気持ちを裏切っていたことにもなる。
ということを、大人になってから気づき、知らなかったにしてもただスルメが欲しかったにしても、無責任なことであり、その無責任であったことこそが、トットが背負うべき「戦争責任」だと締められていました。
この話とつい最近聞いた話を振り返り、今でいうところの個々人の「愛情」を理由にした搾取の正当化を思い出しました。当人は知らないにせよ、その気はないにせよ、その「愛情」や「応援」を向けられた側はそれに報いるために自分を必要以上に追い込んでしまうし、それも「お国のため」だとか「愛情のため」だとかで結果的に追い込まれた側がそうなってしまったことについての責任を負うものは誰もいない。そこに本当に自分を追い込んだ人は純然たる自分の意思でそうなったのだろうか。その人を地獄に突き落とすための手伝いを自分たちは愛情だとか応援だとかという形でしていたんじゃないだろうか。だからこそ無責任に当人をその気にさせるムーブをしてあとは知らん、みたいなのはいかがなものかと思うわけですが、トットちゃんは無責任でいたということを悔やみ、それを背負うと描かれておりました。これは、ただただ理不尽な暴力に虐げられる被害者としてしか描かれてこなかった「民衆の戦争」の視点としては新鮮だなと少なくとも私はそう思いました。こういった作品が書かれるなら、そのうち加害の事実にもっと向き合うような作品が生まれる日もそう遠くはないのかも、とかそう思いました。事実美化されつつあった前線で戦う兵士の痛みや特攻の無意味さと戦後社会の欺瞞をトットちゃんと同時期にやっていた映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」で描かれていましたし。
他にも、疎開が誰でもそんな簡単にできる者ではなかったこと、そもそも疎開先にたどり着くのもそう簡単じゃなかったこと、そこでもいい人とのめぐりあわせや助け合いを通じて日々を生きていた民衆の姿もトットちゃん視点で描かれており、そういった時代の一面を知る年代記としても、非常に見応えのあるものだったと思います。
そんなトットちゃんが、世界各地で貧困や暴力に苦しむ子供たちに寄り添う仕事を御年90になる今まで続けてこられたというのも、やはり運命だと思うし、こんな方だったからこそそういった道を歩まれたのだなと思いました。
しかし、こうしてみると改めてトットちゃんの試写会だか舞台上挨拶だかで黒柳氏相手に直接登壇して質問ができるって機会、その機会を得られた人相当ラッキーだなと思いました。まあ仮にその場に私がいたとしてもあまりにも畏れ多すぎて何もできなかったとは思いますが。
